「この記者会見はプロレスと同じでクソ」と言う政治プロレス表現の話
「記者会見はプロレスを見ているみたいだ」「あの記者はプロレスラーか」、そんな例えをする者達が批判されている。記者会見をプロレスなどと呼び、《まるでプロレスが程度の低い興行であるかのように聞こえる》という。プロレスを馬鹿にしているかのようだ。
プロレス以外にも様々なスポーツに例えられる政争。「野球で言えばまだ9回裏です」「ワンチームで政治をしましょう」など、なぜか政治をスポーツに例えたがる人が急増している。
スポーツに例えたい気持ちはわかる。 それをされると不快になるファンの気持ちがわからないというのか。
政治のみならず、あらゆる物事がプロレスに例えられる。「今回の記者会見は程度の低いプロレスだ」それを連呼されると、ある人々にとっては怒りが溢れてくる。政争をプロレスに例える行為、それは、一部のプロレスファンが傷つく。「まるでプロレスのようだ」と。
なぜそこで「プロレス」が出てくるのかわからない。
プロレスは、彼らに言いように例えられる道具ではない。プロレスは崇高なイベントだ。
「記者会見はプロレスのようだ」「プロレスを見ているかのような国会だ」、そう、彼らによって、プロレスという物が、「程度が低い」として扱われる。程度が低いのがプロレスであると。「政治プロレス」という言葉が出回っている以上、彼らに悪気はないかもしれない。
プロレスは、人気があるスポーツだが、プロレスに例えるのには問題があるという。
「まるでプロレスを見ているようだ」確かにそうかもしれない。しかし、ワンクッション置いて考えてもらいたい。その例えで傷つくファンがいることを。
「プロレスみたいでクソ」と言われたファンは、どんな気持ちだろう。明らかにプロレスを下に見ており、その人物はプロレスを連呼している。
「プロレスは例えに使っても誰も怒らない代物」という感覚で皆使っているのではないか。確かに不味い記者会見もあるにはあるが、それをプロレスに例えるのは心外である。プロレスは彼らの例えの道具ではない。
プロレス側は、例えても何も行動しないかもしれない。それをよいことに、彼らは、「記者会見はプロレスみたいだ」と平気で言う。確かにプロレスみたいな記者会見はあるが、その例えにプロレスを使って良いのか。
プロレス団体はこうまで見下されて黙っているのか。例えにプロレスを使い、プロレスを見下している彼らは、今後も「表現の自由」を武器にして使い続ける。プロレスに似た政治、プロレスみたいな記者会見、プロレスのような試合、全てプロレスを見下しているからこそだ。
プロレスを題材にしたことへの怒りは伝わってくる。
誰も気にしないかもしれないが、プロレスを見下すのだけはやめてほしい。私はともかく、このことに激怒しているTwitterユーザーは少なくない。
何はともあれ、プロレス=記者会見ではない。万が一プロレスに似ているとしても、「プロレスと同じでクソ」
と言うのは止めてくれ。確かにプロレスと似ているかもしれないが、「プロレスと同じ」と何でもプロレスに例えるそれが鬱陶しい。
「これはプロレスなんだろう」じゃない。明らかに記者会見だ。プロレスとはいえない。プロレスとは違う。
「まるでプロレスの記者会見のようだ」ならまだわかる。プロレスの記者会見に似ていると。プロレスを彼らは尊敬していないのがわかってくる。
例えに丁度良いから彼はプロレスを使ったにすぎない。
ああ、もし、彼らがプロレスを見下していないなら、「プロレスと同じでクソ」なんて言わなかった。どこまでプロレスが嫌いなんだ彼らは。「プロレスに例えるなら安くつく」という感覚なのだろう。
何が「プロレスと同じでクソ」だ。クソは無駄にプロレスに例える彼らだ。プロレスは素晴らしいが、同時にアンチも一定数存在することを知っている。
野球と同じでクソ、プロレスと同じでクソ、ボクシングと同じでクソ、彼らの表現は愚かしい。
私は、プロレスを彼らが見下していることを知った。確かにプロレスの悪い部分はあるかもしれない。だがなんだその言い種は。「プロレスと同じで」とはなんだと聞いているんだ。【政治プロレス】という言葉がどんな意味を持っているかを我々は知っている。
検索してみても、【政治はプロレスを止めるべきだ】だの【プロレスと政治の共通点を教えてやる】だのしかでてこない。政治プロレスとは何なのだろう。私は、政治=プロレスと思っている人々を軽蔑する。確かに政治とプロレスは似ているかもしれない。「政治はプロレスと同じでクソ」が我慢できないのだ。
おそらくこれからも、プロレスは、例えとして便利に使われるだろう。「政治はプロレスみたいだ。」と。
記者会見や政治はプロレスと似ている。だがその例えで傷つく奴もいるかもしれないということを我々はわかるべきだ。